妖艶な美貌で次々に男をたぶらかした女 「日本一の毒婦」と噂された「妲己のお百」とは?
日本史あやしい話
■史実としてのお百も、男遍歴を繰り返して大騒動
以上は『今古実録増補秋田路』に記された妲己のお百の毒婦ぶりであるが、前述したように、あくまでも書に記されたもので、史実かどうかは不明。それでも、モデルとなった実在の女性がいたことは間違いないだろう。ここからは、より史実に近いと思われるもう一つのお百に関する実録本を見てみることにしたい。それが、江戸時代の講釈師・馬場文耕が著した『秋田杉直物語』である。
それによると、お百(後にりつと名を変える)は、京都九条通りの貧農の生まれだったようである。幼少の頃から聡明で、かつ美貌の持ち主。愛嬌が良かったこともあって、12歳の頃、祇園町の色茶屋・山村屋の女中に。これを皮切りとして、14歳の頃から座敷に出るようになった。男たちと頻繁に交わるようになったのも、この辺りからである。
やがて彼女の評判が世に知られるようになり、目をつけた大坂の大富豪・鴻池善右衛門が身請け。妾として囲われたようだ。それでも、さすがは世情に長けた善右衛門。彼女が「男を破滅させる女」であることを見抜いていた。善右衛門の目を盗んで歌舞伎役者の津打門三郎と懇ろになったことを知るや、「やはり〜」との思いで、すぐに彼女を手放している。もともと世間体を気にする善右衛門、その艶聞を世に知られることを恐れて、已む無く二人を夫婦にしてやったのだ。
晴れて夫婦となったお百たちは江戸に出て同棲するも、彼の方が病を患って死去するという悲運に見舞われている。以降、しばらく世間の目から逃れるように姿をくらましたというが、その実、密かに新吉原揚屋町の色茶屋・海老屋の女将や、田町の色茶屋尾張屋清十郎の後妻におさまるなど、あいも変わらず男遍歴を繰り返していたのである。
そして最後に出会ったのが、佐竹藩(久保田藩、秋田藩)の奥家老を勤める那珂忠左衛門であった。ここでも懲りないお百。忠左衛門と逢瀬を重ねたものの、それが夫にバレた。もちろん、清十郎が怒ったことはいうまでもない。お百はあっけなく、尾張屋を追い出されてしまったのだ。ところが、彼女はそれを悲しむどころか、これ幸いとばかりに那珂忠左衛門宅へ転がり込んだというから、何とも図太いというか。
ちなみに那珂忠左衛門とは、佐竹藩内に巻き起こった佐竹騒動の中心人物で、お家乗っ取りの陰謀に加担したと見られることのある御仁である。佐竹騒動とは佐竹藩における銀の兌換券の発行に端を発するお家騒動であるが、一説によれば、お百もその陰謀に加担したと見られている。お百の妹と称する女性を主君である佐竹義明にあてがって骨抜きにした上で、陰謀を巡らせたのだとか。銀札を用いて金銀をせしめようとの姦計を巡らせたというが、結局は悪事がバレて那珂は斬罪。それでも、お百だけは難を逃れることができたというから、悪運の強さは格別であった。
その後、豪商・高間伝右衛門の甥・磯右衛門の妻に。つくづく、男遍歴の多さに、目を白黒させられてしまう。
前述の『今古実録増補秋田路』に描かれたような極悪非道な悪事を働いたわけではないものの、男性遍歴を繰り返して騒動を引き起こしたことは間違いない。となれば、史実としてのお百は、毒婦と言うよりも、妖艶さをもって男をたぶらかせた妖婦と呼ぶべきだろうか。
同じ悪女といえども毒婦とは縁を持ちたくないが、妖婦となれば話は別。しかもとびっきりの美女となれば、一度ぐらいお目にかかりたいと思うのが、世の男どもの偽らざる本音というべきだろう。
ただし、地位もお金も性的魅力にすら恵まれない凡夫に、悪女が近付いてくるわけはない。はなから相手にされることもないから、お近付きの可能性は絶望的である。まあ、それゆえに悪女の弊害に悩まされることがないのだから、むしろ幸いというべきか。凡夫であって良かったと考えるべきだろう。

『姐妃のお百 : 秋田騒動』より/国立国会図書館蔵
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